視察レポート
日本遺産「いざ、鎌倉」~文士・文豪ゆかりの地を訪ねて~(2024年11月号掲載)
2024-11-11
文・写真=(公財)日本修学旅行協会 理事長 竹内 秀一、編集部 中出三千代
月刊「教育旅行」2024年11月号掲載
※本記事中の情報は執筆当時のもので、その後変更されている場合があります。
最新情報は問い合せ先にご照会ください。
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修学旅行や遠足などの訪問地として人気の鎌倉は、平成二八(2016)年に日本遺産「いざ、鎌倉」~歴史と文化が描くモザイク画のまちへ~に認定されている。(公社)日本観光振興協会では、令和元年度より「日本遺産体験周遊ツーリズム事業」として、日本遺産の観光コンテンツ化を通じて、その周知と人流拡大に向けた事業を展開している。鎌倉でもこの事業の一環で、4つのテーマに基づくモデルルートが設けられている。それらのうち、「鎌倉文化人ルート」~時代の文士・文豪に思いを馳せる鎌倉文学を体感する~の視察に参加させていただいた。
鎌倉と文学
鎌倉と文学
鎌倉時代から室町時代中期まで「武士の都」として栄えた鎌倉には、武士だけでなく公家や僧侶など京からも多くの人々が訪れた。13世紀に著された『海道記』や『東関紀行』、阿仏尼の『十六夜(いざよい)日記』などは、そのことを物語る代表的な紀行文学だ。また、3代将軍源実朝(さねとも)は、京の著名な歌人・藤原定家の指導を受け、自らの歌集『金槐(きんかい)和歌集』を残した歌人としても知られている。
都市としての鎌倉は中世後期から一時衰退するが、近世になると江戸幕府の支援も得て寺社が復興し、江戸からの参詣者で賑わうようになった。近代に入り、明治二二(1889)年の横須賀線開通によって東京と結ばれた鎌倉には、温暖な気候や歴史・文化に惹かれた文学者が多く移り住み、彼らはやがて「鎌倉文士」と呼ばれるようになっていった。
「鎌倉文化人ルート」は、JR横須賀線北鎌倉駅前の円覚寺(えんがくじ)からスタートする。
都市としての鎌倉は中世後期から一時衰退するが、近世になると江戸幕府の支援も得て寺社が復興し、江戸からの参詣者で賑わうようになった。近代に入り、明治二二(1889)年の横須賀線開通によって東京と結ばれた鎌倉には、温暖な気候や歴史・文化に惹かれた文学者が多く移り住み、彼らはやがて「鎌倉文士」と呼ばれるようになっていった。
「鎌倉文化人ルート」は、JR横須賀線北鎌倉駅前の円覚寺(えんがくじ)からスタートする。
文豪ゆかりの円覚寺
円覚寺は、臨済宗円覚寺派の総本山で、鎌倉五山第二位の禅寺だ。八代執権北条時宗が、二度にわたる元寇で戦死した敵味方の兵士たちの菩提を弔うため、弘安五(1282)年に宋(中国)の禅僧・無学祖元を招いて建立した。境内は山門(三門)、仏殿、法堂跡、方丈がほぼ直線上に並ぶなど、宋の禅宗様伽藍配置となっている。
「文士・文豪」ゆかりの場所は、山門右手の小高い場所にある塔頭(たっちゅう)帰源院。夏目漱石は明治二七(1894)年12月末から翌年始めにかけて参禅のため止宿し、この時の体験は、後年執筆した小説『門』で重要な場面の一つとして描かれた。
• 山門を入ると、左右には大きな杉があって、高く空を遮っているために、路が急に暗くなった。その陰気な空気に触れた時、宗助は世の中と寺の中との区別を急に覚った。(『門』)
島崎藤村も、明治二六年の8月と10月に、それぞれ1か月ほど帰源院で過ごした。自伝的な小説『春』や『桜の実の熟する時』には、鎌倉の風景や人々が描かれている。
• 岸本が泊まって居るところは円覚寺境内の古い禅寺で、苔の生えた石段を登りつめたところに門を構へたやうな位置に在る。(『春』)
また、30代後半から亡くなるまで鎌倉に住んだ川端康成は、小説『千羽鶴』の中で塔頭佛日庵での茶会の様子を描いている。境内には、映画監督の小津安二郎や木下惠介の墓もある。
円覚寺は、臨済宗円覚寺派の総本山で、鎌倉五山第二位の禅寺だ。八代執権北条時宗が、二度にわたる元寇で戦死した敵味方の兵士たちの菩提を弔うため、弘安五(1282)年に宋(中国)の禅僧・無学祖元を招いて建立した。境内は山門(三門)、仏殿、法堂跡、方丈がほぼ直線上に並ぶなど、宋の禅宗様伽藍配置となっている。
「文士・文豪」ゆかりの場所は、山門右手の小高い場所にある塔頭(たっちゅう)帰源院。夏目漱石は明治二七(1894)年12月末から翌年始めにかけて参禅のため止宿し、この時の体験は、後年執筆した小説『門』で重要な場面の一つとして描かれた。
• 山門を入ると、左右には大きな杉があって、高く空を遮っているために、路が急に暗くなった。その陰気な空気に触れた時、宗助は世の中と寺の中との区別を急に覚った。(『門』)
島崎藤村も、明治二六年の8月と10月に、それぞれ1か月ほど帰源院で過ごした。自伝的な小説『春』や『桜の実の熟する時』には、鎌倉の風景や人々が描かれている。
• 岸本が泊まって居るところは円覚寺境内の古い禅寺で、苔の生えた石段を登りつめたところに門を構へたやうな位置に在る。(『春』)
また、30代後半から亡くなるまで鎌倉に住んだ川端康成は、小説『千羽鶴』の中で塔頭佛日庵での茶会の様子を描いている。境内には、映画監督の小津安二郎や木下惠介の墓もある。
俳句に詠まれた建長寺の梵鐘
円覚寺から建長寺まではバスで約4分。ただし、平日でも慢性的に渋滞する道路で、歩いても15分ほどなので、班別行動の際は徒歩移動の方がよいだろう。
鎌倉五山第一位の建長寺は、建長五(1253)年、五代執権北条時頼が禅によって国の興隆を図るため、宋の高僧・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を招いて建立した。現在も常時10人から20人の僧が修行に励んでいる。
建立の2年後に鋳造された国宝の梵鐘があり、明治二八年9月、夏目漱石は、「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」とこの鐘を俳句に詠んだ。しかしこの句よりも、親友の正岡子規がこれを参考に作ったという、「柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺」の方がよく知られているだろう。
「私小説の神様」とも言われる葛西善蔵は、塔頭宝珠院に大正八(1919)年から関東大震災で被災する大正一二年までのおよそ4年間、止宿して創作の場としていた。墓も建長寺の回春院にある。
円覚寺から建長寺まではバスで約4分。ただし、平日でも慢性的に渋滞する道路で、歩いても15分ほどなので、班別行動の際は徒歩移動の方がよいだろう。
鎌倉五山第一位の建長寺は、建長五(1253)年、五代執権北条時頼が禅によって国の興隆を図るため、宋の高僧・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を招いて建立した。現在も常時10人から20人の僧が修行に励んでいる。
建立の2年後に鋳造された国宝の梵鐘があり、明治二八年9月、夏目漱石は、「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」とこの鐘を俳句に詠んだ。しかしこの句よりも、親友の正岡子規がこれを参考に作ったという、「柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺」の方がよく知られているだろう。
「私小説の神様」とも言われる葛西善蔵は、塔頭宝珠院に大正八(1919)年から関東大震災で被災する大正一二年までのおよそ4年間、止宿して創作の場としていた。墓も建長寺の回春院にある。
歌人将軍・源実朝を偲ぶ鶴岡八幡宮
建長寺前からまたバスに乗り、鶴岡八幡宮へ向かう。徒歩でも10分ほどなので、歩いて行ってもよいだろう。
鶴岡八幡宮は、日本を代表する八幡宮の一つで、鎌倉のシンボルと言ってよい。海の方から鶴岡八幡宮へ真っ直ぐ伸びる若宮大路は、源頼朝が鎌倉のまちづくりの第一歩として整備したもので、社殿を平安京の内裏に見立て、そこに向かう朱雀大路になぞらえている。
源頼朝・実朝が祀られている「白旗神社」や静御前が舞を披露したという鶴岡若宮廻廊の跡に建つ「舞殿」など、広い境内には、鎌倉時代からの歴史を物語る見どころが多い。
鎌倉国宝館の右手前に、源実朝の歌碑がある。関東大震災のときに倒壊した二ノ鳥居の石柱を使用したもので、「山はさけ うみはあせなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも」と、『金槐和歌集』の歌が陰刻されている。この歌は、後鳥羽上皇への忠誠を誓ったものだと言われる。
建長寺前からまたバスに乗り、鶴岡八幡宮へ向かう。徒歩でも10分ほどなので、歩いて行ってもよいだろう。
鶴岡八幡宮は、日本を代表する八幡宮の一つで、鎌倉のシンボルと言ってよい。海の方から鶴岡八幡宮へ真っ直ぐ伸びる若宮大路は、源頼朝が鎌倉のまちづくりの第一歩として整備したもので、社殿を平安京の内裏に見立て、そこに向かう朱雀大路になぞらえている。
源頼朝・実朝が祀られている「白旗神社」や静御前が舞を披露したという鶴岡若宮廻廊の跡に建つ「舞殿」など、広い境内には、鎌倉時代からの歴史を物語る見どころが多い。
鎌倉国宝館の右手前に、源実朝の歌碑がある。関東大震災のときに倒壊した二ノ鳥居の石柱を使用したもので、「山はさけ うみはあせなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも」と、『金槐和歌集』の歌が陰刻されている。この歌は、後鳥羽上皇への忠誠を誓ったものだと言われる。
小説『薪能』に描かれた鎌倉宮
鶴岡八幡宮からバスに乗ると10分弱で鎌倉宮に着く。明治天皇の勅命により明治二(1869)年に創建された神社だ。祭神は、後醍醐天皇の皇子で、鎌倉幕府打倒に功を為した護良(もりなが)親王。本殿の裏手には、護良親王が足利方に捕らえられ幽閉されたと伝わる土牢がある。
腰越や梶原などに住んだ立原正秋は、『鎌倉夫人』や『恋人たち』など、鎌倉を舞台とする数々の小説を著している。なかでも人妻と能面打ちとの秘められた愛を描いた初期の代表作『薪能(たきぎのう)』は、鎌倉宮で、現在は毎年10月上旬に行われている薪能が物語のラストへ向う鍵となっている。
• 恒例の鎌倉薪能が今年は九月二十二日に催される、と昌子が知ったのは、八月も末であった。その日の午後、昌子は買い物にでた帰りに、若宮大路にある鎌倉彫の源氏堂によった。(『薪能』)
鶴岡八幡宮からバスに乗ると10分弱で鎌倉宮に着く。明治天皇の勅命により明治二(1869)年に創建された神社だ。祭神は、後醍醐天皇の皇子で、鎌倉幕府打倒に功を為した護良(もりなが)親王。本殿の裏手には、護良親王が足利方に捕らえられ幽閉されたと伝わる土牢がある。
腰越や梶原などに住んだ立原正秋は、『鎌倉夫人』や『恋人たち』など、鎌倉を舞台とする数々の小説を著している。なかでも人妻と能面打ちとの秘められた愛を描いた初期の代表作『薪能(たきぎのう)』は、鎌倉宮で、現在は毎年10月上旬に行われている薪能が物語のラストへ向う鍵となっている。
• 恒例の鎌倉薪能が今年は九月二十二日に催される、と昌子が知ったのは、八月も末であった。その日の午後、昌子は買い物にでた帰りに、若宮大路にある鎌倉彫の源氏堂によった。(『薪能』)
文学者の歌碑・句碑などが多い瑞泉寺
鎌倉の花の寺として知られる瑞泉寺(ずいせんじ)は、鎌倉宮から徒歩20分ほど。嘉暦二(1327)年の創建で、開山は臨済宗の禅僧・夢窓疎石(むそうそせき)。本堂裏には、発掘、復元された疎石作という庭園があり、国の名勝に指定されている。また疎石は、当時、京都五山や鎌倉五山を中心とする禅僧たちによって盛んに行われていた漢文学・漢詩など五山文学の優れた漢詩人でもある。彼が裏山に建てた徧界一覧亭(へんかいいちらんてい)は、鎌倉における五山文学の拠点となっていた。瑞泉寺には多くの文学者が訪れていたこともあり、境内には良寛研究で著名な吉野秀雄や口語体の短歌を特徴とする山崎方代(ほうだい)の歌碑、久保田万太郎の句碑や、ジャーナリストでノンフィクション作家、評論家の大宅壮一の「男の顔は履歴書である 大宅壮一」と刻まれた碑などがある。
鎌倉の花の寺として知られる瑞泉寺(ずいせんじ)は、鎌倉宮から徒歩20分ほど。嘉暦二(1327)年の創建で、開山は臨済宗の禅僧・夢窓疎石(むそうそせき)。本堂裏には、発掘、復元された疎石作という庭園があり、国の名勝に指定されている。また疎石は、当時、京都五山や鎌倉五山を中心とする禅僧たちによって盛んに行われていた漢文学・漢詩など五山文学の優れた漢詩人でもある。彼が裏山に建てた徧界一覧亭(へんかいいちらんてい)は、鎌倉における五山文学の拠点となっていた。瑞泉寺には多くの文学者が訪れていたこともあり、境内には良寛研究で著名な吉野秀雄や口語体の短歌を特徴とする山崎方代(ほうだい)の歌碑、久保田万太郎の句碑や、ジャーナリストでノンフィクション作家、評論家の大宅壮一の「男の顔は履歴書である 大宅壮一」と刻まれた碑などがある。
源実朝が歌会を開いた永福寺跡
瑞泉寺から徒歩10分ほどで永福寺(ようふくじ)跡に着く。源頼朝が、奥州平泉征討で亡くなった藤原泰衡(やすひら)や弟・源義経ら武将たちの鎮魂のため、建久三(1192)年から3年をかけて建立したのが永福寺だ。本堂の二階堂を中心に、左右に阿弥陀堂と薬師堂、前面に浄土庭園を配した壮大な寺院だったが、室町時代に焼失し廃寺となった。現在は発掘調査の結果に基づき、建物の基壇や池等が復元されている。
源実朝は、夫人同伴で桜を観にこの寺を訪れ、また、僧坊で歌会を催したとの記録が、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』にある。きっと実朝もここで歌を詠んだことだろう。鎌倉時代の歌会に思いを馳せてみたい。
瑞泉寺から徒歩10分ほどで永福寺(ようふくじ)跡に着く。源頼朝が、奥州平泉征討で亡くなった藤原泰衡(やすひら)や弟・源義経ら武将たちの鎮魂のため、建久三(1192)年から3年をかけて建立したのが永福寺だ。本堂の二階堂を中心に、左右に阿弥陀堂と薬師堂、前面に浄土庭園を配した壮大な寺院だったが、室町時代に焼失し廃寺となった。現在は発掘調査の結果に基づき、建物の基壇や池等が復元されている。
源実朝は、夫人同伴で桜を観にこの寺を訪れ、また、僧坊で歌会を催したとの記録が、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』にある。きっと実朝もここで歌を詠んだことだろう。鎌倉時代の歌会に思いを馳せてみたい。
「鎌倉文士」の時代を感じる旧諸戸邸と長谷エリア
永福寺跡から10分ほど歩き、大塔宮バス停でバスに乗車。鎌倉駅で下車し、さらに江ノ電に乗って由比ヶ浜駅で降りる。海とは反対方向に10分あまり歩くと見えてくる洋館が旧諸戸(もろと)邸だ。長谷の旧諸戸邸は、明治四一(1908)年に建てられた、鎌倉に残る数少ない明治時代の二階建て洋風建築。正面バルコニーの柱には、ギリシャの建築様式が取り入れられている。
旧諸戸邸周辺には戦前に建てられた洋風の別荘建築がいくつかあり、あたりを散策すると鎌倉文士が闊歩していた時代の雰囲気を感じることができる。
旧諸戸邸の近くには、ノーベル文学賞を受賞した川端康成の旧邸がある。鎌倉を好んだ川端は、昭和一〇(1935)年から鎌倉に住み始め、昭和二一(1946)年からここに住んでいた。その近くにある甘縄神明(あまなわしんめい)神社は鎌倉最古とされる神社で、川端の小説『山の音』に登場する信吾の家の裏山にある神社のモデルともいわれる。
また、少女小説から歴史小説まで幅広い作品を書いた吉屋信子が晩年に暮らした近代数寄屋建築の住宅(現在は吉屋信子記念館)もすぐ近くにある。
文学資料を保存・展示する鎌倉文学館
「鎌倉文化人ルート」の締めのスポットが鎌倉文学館だ。旧諸戸邸から近い谷戸(長楽寺谷)にある青い瓦の屋根とハーフティンバー様式の外壁が印象的な建物は、昭和一一(1936)年に加賀の前田侯爵家16代当主・前田利為(としなり)が建てた三階建ての西洋風の別荘で、三島由紀夫は遺作となった『豊饒の海』の第1巻『春の雪』に登場する侯爵家別荘は、ここをモデルに描いた。鎌倉市に寄贈されたのち、昭和六〇(1985)年に鎌倉文学館となり、川端康成、夏目漱石、芥川龍之介、与謝野晶子といった鎌倉にゆかりのある文学者の直筆原稿や手紙、愛用品などの文学資料を収集保存し、展示している。このルートを辿るなら必見だが、残念なことに現在は大規模修繕のため休館中。修繕が終わる令和九(2027)年が待ち遠しい。
その他のコース・便利なフリー切符
鎌倉市では、特定の観光スポットに一極集中するオーバーツーリズムが課題となっているが、この事業では、市内に点在している日本遺産の構成文化財を周遊することで、観光客の分散化を図り、鎌倉の新たな魅力を発見してもらうことも目的の一つだ。他の3つのコースも魅力的なテーマが設定されている。
・「鎌倉『参詣』ルート」~江戸時代から鎌倉の観光は始まっていた?!江戸時代における鎌倉の定番『参詣』を辿る~
・ 「鎌倉 "武士道" 仏教ルート」~鎌倉武家政権に大きな影響を与えた、鎌倉仏教に触れる~
・「女性の思いを馳せるルート」~鎌倉時代から近現代にかけて、それぞれの時代における女性の生活や想いを辿る~
詳細は「日本遺産 いざ、鎌倉」案内サイトを参照していただきたい。
また、今回の視察のように路線バスや江ノ電を多く利用する場合には、それぞれの交通機関が1日自由に乗り降りできるフリー切符が便利だ。「鎌倉フリー環境手形」や「京浜急行バス鎌倉フリーきっぷ」など複数あり、周遊するコースに合わせて利用できる。
むすびにかえて
今回の視察では、訪れた各スポットで鎌倉ゆかりの文人・文豪を偲ぶことができた。だが、それだけでなく、それぞれの作品でその時代の鎌倉がどのように描かれているか、また鎌倉の歴史・文化や行事などがその作品の中でどのような役割を担っているのか、さらに鎌倉に住んだこと、訪れたことがその文人・文豪にどのような影響を与え、そのことが作品にどのように現れているのか、といった考察にも繋げていくことができる。
「鎌倉文化人ルート」は、今、学校に求められている「探究的な学び」の機会としての価値も大きいのではないかと感じた。
【問い合せ先】
神奈川県鎌倉市御成町1-12
TEL:0467-23-3050